悟るとは、なんと難しいことだろう。
すべてを無にし、その“無”にすら集中する。
でもあるとき、賢明な人がこう言った。
「悟りとは、ひらめきである」と。 ——そうであれば、
自分は案外“悟りやすい体質”かもしれない。
自分をクリエイティブに捧げると決めたあの日から、感覚に、曖昧な気配に、更に敏感になり、分子レベルで感じるようになった。
スポンジのように吸収しては膨らみ、インプットが枯れると、しぼむ。それを、ただ繰り返している。かつて「繊細だね」と言われるのが苦手だった。
その言葉の裏に、「弱さ」と解釈していたから。でもいまなら思う。美しいものを見つけて、すくい上げ、かたちにする。それがクリエイターの仕事なら、繊細さは“弱さ”ではなく、“エッセンス”だ。
「喜怒哀楽」のうち、自分がずっと向き合えなかった感情がある。
それは、「哀」だった。幼い頃、哀しみを表現する余裕はなかった。
その感情は、怒りとなって表に出てしまっていた。
年のせいかもしれないが、最近、涙が頬を伝うことが増えた。何かを思い出して、ただこぼれるような涙。
——ああ、自分は今、哀しんでいる“自分”を少しだけ好きになっているのかもしれない。
……と思っていた。
けれどまた、ひとつ悟った。やっぱり自分は、哀しみに浸っている“自分”が、あまり好きではなかった。
「暗いジョージ」は、自分が一番好きではない。
それに悟られた時、霧が晴れるように、視界が戻った。
それはまさに“ひらめき”だった。
なぜ自分は、こんなふうに愛するのか。
過去をたどると、理由は見つかる。
幼い頃、頼る場所も、術もなかった。
だから、自分はいつも「安心感」と「ホーム」を探していた。愛は、言葉や形式ではなく、気配、行動、ボディランゲージのなかにある。
空気のように漂いながら、確かに伝わってくる。
ときどき、不安に襲われる日がある。
何かが揺れている気がして、心がざわつく。
けれど実際は、風なんて吹いていなく、
——ただの無風。
なのに、自分の中だけがざわついている。
錯覚のように。
風が吹いたわけじゃない。
自分の内側で、作った風だったのだ。
風邪を引くように、心の免疫力が下がったとき、人は“誰か”に答えを求めたくなる。
カードを引いたり、「先生」に頼ったりするのもその一つ。
でも、それにもどこか違和感を感じるようになった。
その違和感こそが、「答えは他人からではなく、自分の中にある」というひらめきだった。
自分は、「守られること」に愛を感じる。それは、過去の自分に会いに行って、記憶が教えてくれたこと。孤独だった時間が長かったからこそ、“分かち合い”の喜びに惹かれるのだと思う。
いまの自分の愛し方がどうしてこうなのか。
何に影響され、何を求めているのか。それを知らなければ、 どちらかが、息苦しくなる。 まずは、自分を知ること。 そして、その自分を受け入れてくれる人を、選ぶこと。 年齢を重ねるほど、「嫌いなもの」は増えるけれど、「好きなもの」はどんどん絞られていく。
だからこそ、その小さくなった“好きのリスト”に、愛を注ぐ。
それが、自分なりの誠実さだと思っている。
やっぱり、愛も金継ぎだ。壊れたままでは、戻れない。継ぐには、意識と集中と、意志(インテンション)が必要だ。
割れた器は、誰かの手がなければ、継がれない。
哀しさも、痛みも、
向き合って、
継いでいく。
愛は、旅路。終着点ではない。