火の鳥とピラミッド、僕はデザートを。

コラム
手塚治虫・火の鳥展/古代エジプト展

小雨が降り始め、一段と寒くなったある日の夕方。本当は店頭に立つべきだったのだけれど、放っておくと僕にはサボり癖がある。
ふと思いつきで、六本木の森美術館で開催されている「手塚治虫・火の鳥展」と「古代エジプト展」を同時に訪れることにした。

東京を一望できる森美術館は、快晴の日ももちろんいい。
でも、曇り空のほうが展示の世界観と調和する気がして、僕はむしろ好きだ。

手塚治虫さんの名前はもちろん知っていた。けれど、これまで特にゆかりがあったわけではない。
子どもの頃、日本語を覚えるためによくアニメを観ていたけれど、大人になるにつれてどんどん遠ざかっていった。
「アニメ=子どもっぽい」と色眼鏡で見ていた自分に、この展覧会をきっかけに、今さらながらセンスがなかったなと反省させられた。

雨のせいか、美術館は鑑賞客であふれかえっていた。

その人混みをかき分けながら、片やミイラの棺を覗きこみ、片や手塚治虫さんの漫画の一コマが巨大にプリントされた床を見下ろす。

今回の展覧会で感じたのは、手塚治虫さんの作品は「子どものため」ではなく、むしろ「大人のため」に描かれているということ。
たまたま媒体が漫画だったというだけで、彼こそが「哲学者」であり、子ども心を忘れない正義感の塊だった人ではないか推測する。

幻想的でロマンにあふれる一方で、どこか孤独を背負った哀愁のある人だったのかもしれない——と、想像を掻き立てられる人物。
似ても似つかない、時代も異なれば共通点もない手塚さんとはどことなく、勝手にシンパシーを感じさせてもらい、この展覧会をきっかけに興味をそそられた。

火の鳥と古代エジプト——
一見まったく関係のない二つの展覧会だが、同時開催が意図されたものなのか、それとも偶然なのか。
そこには意外にも、強く共鳴し合う共通点があった。
それは、「生と死」そして「輪廻転生」への異常なまでの探究心。いや、あそこまでいくともはや執着心なのである。

古代エジプトは、強く死後の世界を信仰の中心に据えた文明だった。魂が来世で肉体に戻れるよう、ミイラにされ、ピラミッドが建てられたのは有名ですよね。
紀元前数千年の時代に、ここまで壮大で繊細な死生観を持っていたことに、ただただ驚く。

一方、『火の鳥』には、輪廻転生や「死」「生」といった言葉が無数に登場する。
なぜ、手塚さんはここまで「生と死」にこだわったのだろうか。
それは、彼が戦中を生き抜いた人だからなのかもしれない。

あるいは——
無類の虫好きだった彼が、自らのペンネームに「虫」を入れたほど、芋虫が羽化し、蝶へと姿を変えるその様に、「再生」、いや、“化ける”ことの美しさを、心の底から信じていたからなのか。

そう思うと、手塚さんとエジプト文明ほど自分自身は「輪廻転生」や「あの世」にはあまり興味がない。けれど、「再生」には強い情熱がある。

壊れた器を繋ぐ金継ぎのように、欠けたものをただ捨てるのではなく、時間と手間をかけて繋ぎ直す——

それは、まさに「再び生きる」ということ。

かつて“完璧”だった姿から、まったく新しい価値へと生まれ変わり、新たな価値観をもたらすということなのだ。

——価値をつくることには探究心、究極に言えば執着心。

人の身体そのものが「再生」を繰り返しているということ。

それを持って言えば、古代エジプトでは、出産は命がけだった。

人々は神像を家に祀り、護符を身につけ、見えない力に頼り、祈り続けた。

そこには、「命が生まれること」そのものへの畏敬、そして「エネルギー」への信仰があったのだろう。

それはつまり、“人類の繁栄”への祈りであり、命がけで命を生み出す女性へのリスペクト、そして命の尊さに宿る神秘への敬意なのかもしれない。

時代が進み、医療が発達した現代では、出産を命がけと捉えることは少なくなってきた。まして僕は男性だからこそ、その実感からは遠い立場だ。

それでも——命が生まれるということは、やはり「奇跡」だと僕は強く思う。それを担う女性は、やはり偉大だと感じる。
「命」に対する捉え方は、時代や文化が違っても、どこかでつながっている。

だからこそ、「生きること」や「死ぬこと」への想いは、より深く、より切実なものだったのだろう。

2025年の今も、世界のどこかでは争いが続いている。無力さを感じることもあるし、ときに罪悪感に襲われることもある。
それでも——僕たちにできるのは、本来“奇跡”であるこの命があることに感謝し、せめて「いま」を、ありがたく生きることだと思う。
それこそが、命への最大の感謝の表現なのではないでしょうか。

そう考えるようになったのは、これまでに何度も“生まれ直し”というか、自分をアップデートしてきた実感があったから。
僕はまだ30代後半だけれど、何度も人生を生き直してきたような感覚かな。

死にたいという感情は一度もないが、これまで、泥水をすするような「こんな人生やだ!」変えて見せる!という瞬間はいくつもあった。
記憶を辿れば、9歳、15歳、18歳、20歳、24歳、30歳。いやもっとあったかもしれない。

時間の感覚が、少しずれている。人間は皆、水準として24時間を与えられているのに——時というものは、相対的だ。

「今」に興味がないわけではない。だけど、つねに「次」を見ていないと、自分が面白くなくなってしまう。

それは長らく、自分のコンプレックスでもあった。

でも、そんな過去を経て、今を生きているということ自体が——すでに「再生」なのである。

僕が人に会うときに興味があるのは、「今、何をしているか」ではない。

「この人は、これからどう化けるのだろう?」
そう想像することに、ワクワクするのだ。

もちろん、今の自分しか見れない人もいて、それはそれで正解。そういう人には、僕は興味がない。
自分にとって「今」は通過点でしかなく、どう化けていくのかが、自分が一番の楽しみなのだから。

今の人生は、かつて思い描いていた未来を、はるかに超えている。

だから、たとえ突然この人生が終わってしまったとしても、後悔はない。

というより——後悔しないように、毎日を生きている。

「次の人生でいい人生にしたい」とか、「あの世で幸せになれるかな?」とか——

正直、そんな“来世待ち”なんて、僕には到底待っていられない。

飽き性なのと、ニューヨークで長く暮らしてきたせいで身についてしまった、このせっかちな性格がそれを許さない。

もちろん、やりたいことはまだまだたくさんある。

でも、すでに僕の「お腹」はしっかり満たされている気もする。逆に言い返すと、それが「不感」である。

これから先に待っているのは、僕にとって「デザート」みたいなものだ。

そう思えるようになってからは、良い意味で“欲”がどんどん薄れていって、その代わりに「ありがとう」という気持ちばかりが、増えていく。

人は変わらない——
けれど、変わることはできる。

肌も筋肉も、細胞は壊れては生まれ変わるように、命がある限り、再生は可能だ。
本当に変わりたいなら、並ならぬ努力とエネルギーが必要だけど。

「生と死」「輪廻転生」「あの世」——
僕は、今を生きながら、「再生」を繰り返し、我がままに生きたい。
そうする。

稲木ジョージ
ミラモア創設者&金継ぎ哲学者
コラム一覧