アートやデザインの世界で、「偉大な」アーティストとはどういうことを指すのでしょうか?
今日のアーティストは独特のスタイルと視点を持っていると思いますが、自分は私たち全員が「クリエイティブ」な能力を備えていると信じています。それこそが私たちを人間らしくするものです。
クリエイティブさはファッションやアート作品に限らず、言葉やその他無限の形で表現できる。
センスというのは主観的なもので、たとえ自分がかっこいいと思ったものでも、他の人はそう思わないかもしれない。反対意見があっても、それを否定も肯定もしなくていいと思う。
自分はデザイン、オブジェクト、コンセプトの具現化に長けています。自分の言葉には言霊があり、力が宿っていると自負しています。執筆することが好きで、それは自分の考えを整理するかのようです。しかし、スケッチやソフトウェアの使用は不得意で、以前はそれがコンプレックスでした。また、料理が得意ではありませんが、食べることは大好きです。料理はまるで科学のように感じられる、まったく別のクリエイティビティです。
私にとって、偉大なアーティストとは、受け手の感情を揺さぶり、心に響く作品を作り出す力を持つ人のことです。私たちはますます感情が麻痺してしまうような「不感症」の世界に生きつつあり、これは非常に重大な問題だと感じます。何年もの間、私は「悲しみ」や「孤独」を感じることの意味を理解するのに苦しんでいました。それは、これらの感情を経験していなかったからではなく、早くから慰めや同情を求める余裕がない環境にいて、感情を閉じ込め奥にしめたからです。
子供にとって、それはとても悲しいことだと思います。子供たちは感情を表現するべきであり、それが彼らの個性を形作るのです。しかし、感受性を取り戻すことは、創造性が開花するために必要なことです。最近、自分は創造性のアイデアが溢れているのを感じている理由は、ようやく自分の感受性を受け入れ、「すべての感情を感じてもいいんだよ」、と自分を許したからだと思います。殺伐としたエネルギーが渦巻くマンハッタンで業務をこなし、キャッスルで創造に没頭することが、自分にとっての「心のリハビリ」でもあります。物事を深く理解し、本質を追求することが、クリエイティブなプロセスには非常に重要です。
キャリアを通じて、「繊細すぎる」と言われたり、批判を受け入れることを学ぶ必要があると言われたりしました。私は自分の心が「それは理にかなっている」と感じるときにのみ批判を受け入れます。それ以外は単なる雑音です。
しかし、クリエイターとして繊細であることは、私の仕事の一部でもあります。それは、他の誰も作ることができないものを生み出すための感情です。しかし、起業家としては、繊細さは「弱点」と見なされがちです。
しかし、それは本当に真実でしょうか?繊細なアーティストでありながら、先見の明を持つ起業家であっても良いと信じています。
長い間、自分は「真新しい作品を作る」ことに焦点を当ててきました。それが、ありふれた物で溢れるこの世界でミラモアを際立たせるための重要な方法だと考えていたからです。その答えが、金継ぎでした。
金継ぎにインスパイアされたジュエリーは数多く存在しますが、自分の作品が際立つのは、「人が金継ぎされる」というコンセプトです。これは、既存の美しさへのオマージュであり、金継ぎの哲学を発見したときに感じたものを表現したものです。
さて、オマージュとコピーの違いとは?
自分にとって、オマージュとは作品を生み出した先駆者に対する深い敬意です。すべてのアーティストは何らかの影響を受けています。オマージュを捧げるとき、単に他人の作品を複製するのではなく、それを基にして自分のスタイルという革新を加え流べきです。
長い間、自分はオマージュを作ることを避けていました。それがコピーと見なされることを恐れていたからです。しかし、アトリエ長が助言したように、金継ぎはジョージのデザインの本質であり、ライフメッセージとなっているからこそ、この哲学を他の作品にも応用できるのです。ただ単にすべてに金色の線を追加するだけでは凡庸すぎて退屈ですし、それ以上のものを作り出さなければいけません。
エルサ・ペレッティをずっと尊敬してきました。彼女に会ったことはありませんが、ティファニーでの彼女の作品をずっと憧れてきました。70年代のニューヨークのシーンに与えた彼女の影響についてのドキュメンタリーを見ると、彼女は単なるアーティストではなく、アイコンであり、まさに太陽のような存在だったことがわかります。彼女には際立ったエネルギーがあり、それが磁石となり人々を惹きつけた理由です。彼女の美的感覚に共鳴し、インターネットが普及するずっと前から漆のジュエリーを作り出したという事実は、本当に素晴らしいと思います。そして、彼女は私が生まれる前から金継ぎの美しさと哲学を理解していました。
これまで一度も言ったことがないのですが、ここで告白したいことがあります。
私の金継ぎバングルは、実はペレッティのボーンカフにインスパイアされたものです。ボーンカフを持ったことはありませんが、その彫刻的なフォルムや手首の骨を包み込む部分が美しいと感じました。それがきっかけで、手首の骨を体の中でも特に官能的な部分として捉えるようになりました。ミラモアのKINTSUGIバングルは、その手首の骨を金の線でなぞるようにデザインされており、ペレッティのデザインへのさりげないオマージュとなっています。
さらに、右手首には「取り扱い注意」のタトゥーを彫りました。自分にとって、右手首はコンセプチュアルアートの一部です。KINTSUGIバングルで修復され、壊れたものを大切に扱うようにというメッセージが刻まれています。かっこいいでしょう?一方、コピーには敬意や本質が欠けています。
他者が生み出した作品を、その本質を理解せずにただ見た目だけを取り入れ、新しい視点を加えることなく単に複製する行為です。模写は技術的なスキルを示すことはできても、真の芸術にはなり得ません。それは、記憶に基づいて風景画を描くことと、単に写真をトレースすることの違いです。前者は対象と深く関わり、後者はただ既存のものを複製するだけです。
自分は作品を通して、人生の複雑さやその本質についてよく考えます。過去と現在のアーティスト、友人、ミューズ、そして自分の周りの世界からインスピレーションを得ています。自分にとって、偉大な芸術とは、苦悩、悲しみ、怒りを美しく意味のあるものに昇華させることです。人生は幸せや楽しさだけでは成り立ちません。日本の伝統的な職人技の要素を取り入れるとき、その芸術性を尊重しながらも、それを自分独自のものに昇華させ、古い価値観を打ち破り、新しい基準を育むことが、ジョージの美学であり、信念です。