「人が金継ぎされている」がコンセプトのKINTSUGIシリーズ。
「壊れていない」人なんていないと思うんだ。
どんなに自信がある人でも、一度は挫折やコンプレックスを経験し、それを乗り越えて自信を築いていると思う。
あなたにとってのコンプレックスや挫折を聞かせて?
自分は割と自信があって、堂々とした性格だと自負している。
とはいえ、一度も揺らいだことがないなんて嘘になる。
最初に経験したコンプレックスを明かそう。9歳でフィリピンから日本に移住したことは、折に触れて話している。当時、フィリピン語が第一言語で、学校では英語を習っていた程度。日本語は全く話せなかった。祖母と母とはフィリピン語で話し、日本人だった父とは英語とフィリピン語そしてジェスチャーが混ざった言葉で話していた記憶がある。
赤ちゃんを水に放り投げて泳ぎを覚えさせるという一昔前の比喩があるように、日本文化が全く何も知らないままごく普通の日本人公立小学校に転入させられた。
フィリピンで普通だと思っていたことが、日本の学校では注意されることが多くて驚きました。「これダメだよ、あれダメだよ」とよく言われたのです。例えば、正座。
フィリピンではアグラ(あぐら)で座るのが普通ですが、日本ではあぐらは失礼とされ、正座が求められました。フィリピンで当たり前だと思っていたことが日本ではダメだと感じることが多かったのです。
運動会の時、クラスメイトはお母さんが作ったかわいいお弁当を持ってきていたのに、自分の弁当はフィリピン料理で、恥ずかしく感じたこともありました。日本料理のお弁当が欲しいと母に頼んだら、おにぎりが三角形ではなく、ボタンの形をしていました。それが恥ずかしかったので、一気に食べたこともあります。でも、実際は食いしん坊だったから早く食べたかっただけだったのだと思う。
吉野家の牛丼が大好きで、特盛と並盛をきれいに食べ尽くしていた。結果、当然のように肥満児になった。
日本語が話せない、ぷよぷよ、見た目が日本人ではないという理由でいじめに遭った。毎日お母さんに泣き叫び、学校に行きたくないと仮病まで使っていた。頑固で厳しい父に「それでも学校へ行け!」と怒鳴られていた。
だが、ある日プールの授業で、先生の話を聞きながら無意識にぽっちゃりなお腹を波打たせたところ、クラスメイトに「腹踊りができる転校生」として一気に人気者になった。子供は単純ね。
今思えば、あれはいじめだったのか、単に見たことのない面白い太っちょの外国人転校生と仲良くしたかったけれど方法がわからなかっただけだったのかもしれない。学校に行きたくない気持ちが強かったが、もしかしたらそれは、苦しい試練を乗り越えるための人生で初めの一歩だったのかもしれない。
家庭環境が複雑で、母子家庭で母は昼も夜も休まず働いていた。6畳一間の団地で一人でパズルを完成させたことがインスピレーションとなり、ミラモアパズルチャームが生まれた。フィリピンと自分を育てるために一生懸命働く母の背中をみて、「頑張る」ことが無意識に脳に刷り込まれていた。
思春期には、これがコンプレックスとなり、「一匹狼」のような時期を形成したのだろう。中学1年生から大学までバレーボール部で活動していたが、当時からチームワークがどうしても理解できなく、チームワークとは何かを探り続けていた。その「コンプレックス」があったから、短気でイライラしやすい性格になったのかもしれない。家族とは何か、愛情とは何かを心の中で探求していた。だがそれを誰にも打ち明けられる相手がいなく、「怒り」としてぶつけることしかできなかったのだ。
大人になった今、普通の家族や普通の愛情なんてものは存在しないことに気づきました。そして、「新しい愛の形」を自分で形成するものだということを発見しました。まさに目から鱗です。
その発見を、自分なりの表現としてデザインしたのが、デュオハートです。
バレーボールの恩師からは「ポテンシャルがあるのに、それではお前はダメになる。『北風と太陽』のように、お前は太陽になれ」と言われ、当時のへの字眉毛の高校生だった自分に衝撃を受けたのを今でも覚えている。北風のように暴風を吹き、人の服を無理やり脱がせるよりも、太陽のように熱を放ち、自ら服を脱がせるという比喩を教えられたのだ。つまり、太陽としては、光を照らし、その範囲でエネルギーを放てということなのだ。それ以来、その言葉を胸に行動していたつもりだ。しかし、太陽があれば月もある。明るく笑顔でいる時もあれば、常に太陽のように照らし続けられるわけではない。もちろん、人に強く当たり、時には落ち込んだり、挫折を感じたりする。常に自分には陰と陽が交差しており、それが「デュオ」という美学で「侘び寂び」という教えが好きなのかもしれない。自分の短所を認めることでそれが人間らしさと愛嬌を生むのだと自分を納得させている。数年すれば自分も40代に突入するが、これからの5年後、10年後、さらにその先を深く考えるようになった。ミラモアを始めた2019年、逆境から生まれた「自分を金継ぎ」するというコンセプトのKINTSUGIシリーズ。今思えば、あれは「逆境」だったのかと、改めて考えさせられたこの夏。
この5年を振り返ってみると、ミラモアだけではなく「稲木ジョージ」という人を振り返り、「辛かった」と思っていた出来事が、「自分を金継ぎ」するコンセプトを思いつくきっかけだったのだ。もしかしたら、一度しかない探検続きの人生において、それは必然的なもので、その哲学を美しいと発見させてくれた学びだったのかもしれない。今の考え方に導いてくれた道しるべだったと思うと、捨てたものではない、むしろ愛おしくさえ感じる。
コインには表と裏があり、それをどう見るかで世界が真逆になることが面白い。
経済的な豊かさはもちろん心の豊かさにもつながることを経験した。だけど心の豊かさは、何を持っているかではなく、どう物事を考えるかによるものだとすれば、どんな景色も美しく見えるものだ。葛藤、怒り、反骨精神というエネルギーが破壊力があるわけであって、それを美しいアートワークに変えるエネルギーに変換した方が素敵じゃない?
そう考えると、やはり自分はKINTSUGIジュエリーが大好きだ。「壊れているのではなく、継がれている。」
気づかせてくれて、ありがとう。
稲木ジョージ
ミラモア創設者&金継ぎ哲学者