愛の日、バレンタインデー。

コラム

結婚を禁じられた兵士たちのために、密かに結婚式を執り行っていたことが、バレンタインの由来だそうだ。

処刑されたキリスト教の司祭、聖ウァレンティヌスの殉教日である2月14日。その日が、愛の象徴として崇敬されるようになったという。

日本では、バレンタインにチョコレートを贈る風習がある。

手作りチョコを、少し照れながら好きな人に渡す──そんな経験も、今思えばなかなかエモい。

最近、「愛とは何か」をよく考える。

おそらく答えなどなく、究極の哲学なのかもしれない。

あなたにとって、愛とは何だろうか。

幸せにしてあげること、幸せにしてもらうことが愛なのか。

相手を思うあまり、自分が傷ついていると知りながら目を背け、我慢することが愛なのか。

それとも、一緒にいることだけで、そのものが愛なのか。

愛の形は無数にあり、一概に定義すること自体がナンセンスなのかもしれない。

国や文化が違えば、愛の表現もまた千差万別だ。

僕が思う愛とは、古典的でありながらも、新しい形を自分の意思で育て、更新していくものだと思っている。

言葉を交わさなくても、心がつながっていればいい──そう思っていた時期もあった。

けれど現実は、違和感を生んだ。

話すのが苦手だから行動で示す、というのは、自分一人なら成立する。

しかし相手がいる以上、行動と言葉は切り離せない関係なのではないか。

窓越しに同じ景色を見ていたとしても、育った環境や価値観が似ていても、視点は必ず異なる。

雨模様を「最悪」と感じる人もいれば、雨音が奏でるサウンドを楽しみ、撥水する小鳥の姿を愛おしく思う人もいる。

お互いの視点を共有してこそ、その景色は二倍楽しめるのではないだろうか。

固く曲げない意志を「こだわり」と捉えるか、「頑固」と捉えるか。

絶対に譲れないポイントだけを押さえ、あとは余白で遊び、振り幅のある愛を楽しめるかどうか。

自分を縮め、相手を立てることは、古典的な愛情表現として美徳とされてきた。だが、現代においてそれはどうなのだろう。

本来持っている光の強さや射程を、自ら下げることは、少なくとも自分にとっては最も不利だと断言できる。

太陽は、自分が放つ光に申し訳なさを感じたりしない。

眩しければサングラスをかけて、日光浴を楽しめばいい。

自然は、ただ美しいだけでなく、生きるための哲学を教えてくれる。

自然に逆らってまで進むべき道なのか、立ち止まって考える必要がある。うまくいっていないのに、さらに頑張り続けること。それを美徳と呼ぶのか、それとも自然に反した執着と捉えるのか。

心臓は正直だ。

心拍数が上がるのは、燃焼しているか、無理をしているかのどちらか。

それなのに、ハートが発するサインを、脳という信号で抑え込んでいないだろうか。

コントロールと爆発、そのバランスを保ちながら秩序をつくること。

愛の日、バレンタイン。

この日こそ、自分と対話し、輪郭を明確にすることがセルフラブにつながるのだと思う。

なぜ自分はこの愛を求めるのか。
なぜこの愛し方なのか。
もう一度ハートと対話してみる。

そして、幼い頃の自分に戻って、同じ質問を投げかけてみてほしい。

ハッピーバレンタイン。

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